(5)祭りの組織と伝統

みんなで楽しく

佐原の祭りは、在郷町の祭礼から出発しています。つまり城下町祭礼のように、幕府や藩権力からの影響を受けることなく、山車の建造費も運営費も町人の自己負担でした。利根川を経由した物資の輸送で経済的にも、文化的にも江戸とのつながりが深い、江戸地回り経済圏の中で展開していった祭礼ですが、形態的にはいわゆる江戸型山車(三層構造)といわれる山車の形態はとっていません。初期には、母衣・傘鉾・花万燈などの練物行列であったものが、享保年代あたりから山車が登場し山車と囃子を中心とした練物が続きました。
次第に町並みも整い、財力もついてきて町内ごとに屋台を作るようになると、その順番を巡って争いが生じるようになってきました。そこで、享保6年(1721)新宿においてほぼ各町の山車が出そろったので、混乱を避けるため、新宿村名主である伊能権之丞が中心となって番組順を以下のように定めました。
関戸を権之丞の上納地のため一番とし、以下、二番上宿、三番上中宿、四番上新町、五番横宿、六番中宿、七番下新町、八番巻軸・下宿としました。
これ以降、新宿では年番制度が確立する明治10年の前年まで、関戸町が年番役を勤めていました。

(惣町参会)
江戸時代の山車祭りは、つけ祭りとして神輿渡御の付属の行事と認識されていました。本宿は旧暦の六月朔(一)日、新宿は旧暦の八月朔(一)日に惣町参会(すべての町内の代表者が集まること)が行われました。
惣町参会は、名主・組頭の村役人と、百姓代・町代で構成され、この集会で練物の執行について協議され、その年山車を曳くか、曳かないかを決定しました。武士のいない町、佐原の自主自由な歴史を象徴しています。

(年番制度)
年番制度は、本宿にあっては江戸時代から年番制をしいていましたが、前項でも記述したように、新宿側では享保6年以降関戸町が常に山車の先頭を占めてきたことに他の町内の不満が高まっていったこと、本宿側では各町の山車が先陣争いを繰り返していたことなどの事情から明治10年に協議の上、現在の年番制度が生まれたといいます。
「年番」は、祭りにおける山車の曳きまわしの番組(順番を組むこと)・約束事など一切の諸事世話方を行うもので各町が順番でこの役を勤めます。年番は「正年番」「前年番」「後年番」に分かれ、各三年間にわたって山車祭りを取り仕切るのです。

正年番(せいねんばん)
当該年度の年番役の町内

前年番(ぜんねんばん)
前年に年番を終えた町内

後年番(ごねんばん)
翌年年番を勤める町内

この「年番制度」。都合9年間にわたって祭事に関わることができ、だからこそ脈々と300年もの長い間伝統が廃れることなく今に伝えられているのです。
なお、この他に本宿には「神輿年番」という制度があり、惣町年番と呼ばれ、八坂神社の祭礼を含む行事を一年間主宰します。また、祇園祭りには神輿の渡御を行います。

(山車曳きまわしの規約の作成)
佐原は道が狭いため、山車と山車の擦れ違いの際、しばしば争いが生じるようになりました。このため、大正13年に新宿では各町の当役および古役が集まり「山車曳きまわしの規約」が、作成されました。

この「佐原の山車祭りの変遷」は以下の文献を参考にさせていただきました。
「佐原山車祭り調査報告書」(旧佐原市教育委員会 平成13年3月30日)
「香取市ホームページより 佐原の大祭」
「佐原の大祭山車祭り」(清宮良造著 小出皓一補 平成15年9月発行)
 「音と文字と映像でつづる佐原山車伝説」川尻信夫/監修 佐原山車伝説出版委員会/編 平成8年7月発行