(1)佐原の山車祭りの変遷

佐原の大祭

佐原本宿の夏祭りと新宿の秋祭りは関東屈指の祭りとされ、市街地を曳きまわされる大人形、鯉や鷹などの作りものがのる山車や囃子は見事なものです。佐原の大祭は国の重要無形民俗文化財に指定されています。

夏祭りは八坂神社(旧牛頭天王社)の祇園祭で、古い町並みが残る佐原の中心部を流れる小野川の東側、すなわち本宿と称される地域の氏子各町内から山車が10台繰り出され、各町内を曳きまわされます。

秋祭りは諏訪神社(旧諏訪明神社)の大祭で、小野川西側の新宿と呼ばれている氏子区域の町内から山車14台が繰り出されて同地域を曳きまわされるのです。

祇園祭は祇園牛頭天王(インドの釈迦の生誕地に因む祇園精舎の守護神とされ、祇園信仰の神)にかかわる信仰で、中国を経て日本に伝えられる過程で陰陽道と結びつきました。牛頭天王は行疫神(疫病をはやらせる神)とされていたため、これを祀れば疫病その他の災厄を免れるとされ、広く信仰されました。平安京においては、もともとが内陸の湿地であったため、高温多湿の地域であったこと、人口の集中、飲み水の不備などにより、疫病が大流行したことから朝廷は牛頭天王を祀り、御霊会を行って無病息災を祈念しました。

祭りの風景

佐原では嘉慶2年(1388)に八日市場の地に牛頭天王社があったといわれ、その後、天和3年(1683)に浜宿に牛頭天王社が造立されたことが「佐原本宿牛頭天王の御由緒」に書かれています。佐原本宿の牛頭天王社の初期のまつりは、御神輿につけ祭りとして花万燈等を持ち歩いていただけのようです。牛頭天王社の山車祭り成立以前には浜降りの神輿渡御行列が行われていたようであり、(浜降りとは御神輿を水辺に出して禊をする行為をいいます。水には罪や穢れを洗い流す効力があると考えられていました)元禄年間になっても山車の記述はなく、囃子を中心とする練物(仮装、山車、囃子などが行列を作って氏子圏を練り歩く行為)であったようです。

佐原の祭りを語るとき、江戸との交流で経済発展した背景を見逃すことはできません。
江戸幕府が開かれて間もないころの江戸の人口は15万人程度であったそうです。それが佐原の山車の起源であるとされる享保6年(1721)には50万人(町人だけで、武士は含まれていない)にも膨れ上がっていきました。(武士などの人数を含めると一説には100万人も…)

佐原の水路

江戸に幕府が開かれ、参勤交代が制度化されるようになると東北諸藩からの藩米を江戸に大量に運ぶ手段として、茨城県の那珂から水運と陸上輸送の手段では間に合わなくなり、銚子から佐原を経由して利根川で舟による輸送経路が開発されると、大消費地江戸を抱えた佐原は、米、味噌、醤油、酒、さらには肥料として需要の高い干鰯(ほしか:鰯を干したもの)を九十九里から仕入れて運ぶなど、隆盛を誇っていきます。元禄3年(1690)に幕府によって行われた河岸の調査で公認河岸とされた86か所のうちの一つに佐原河岸の名前があります。また、新宿の六斎市も盛んになり佐原で働く人の数も増えるとともに、有力な商人が江戸の文化を吸収しながら、佐原独自のものを模索し、忙しく働く人々をねぎらうためにその有力者たちが祭りを始め、山車の起こりも蔵方達が大八車に御幣を載せて遊んだのが始まりだともいわれています。

このような経過を見ていくと、もし、徳川家康が江戸に幕府を開かなかったら…今の佐原の豪華絢爛な山車祭りはなかったかもしれません。こうして見ると、佐原と家康の関係が深いものであることに気づかされますね。