(2)山車祭りの成立と展開

気合をこめて

現在は露台の飾り物は大人形が主流ですが、もともとは山車が出る年ごとに氏子が手作りで作っていました。現在の仁井宿区の稲藁の鷹と、八日市場区の麦藁の鯉にかつての面影を見ることができます。その後、江戸後期になると江戸の人形師にその製作を依頼するようになっていきました。

経済力が増した佐原の有力者がそこで働く人々をねぎらうために始めた素朴な祭りが、江戸中期になると次第に華やかに町内ごとに競い合うようになり、大規模化して町内ごとに山車を作るようになっていったのです。享保6年(1721)に新宿の祭りに8台の屋台が現れたという記録があり、現在佐原の山車祭りの起源はこの享保6年としています。

祭りに喧嘩はつきもの・・・・

現在ではほとんど見かけませんが、江戸時代から喧嘩や争いごとがつきなかったようです。

ヒートアップ

山車の順番争いがその最たるものだったようで、日本全国を歩いて正確な地図をつくった伊能忠敬も佐原の有力な商家であったため、争いの仲裁をしていたようです。(伊能家に入って7年後、24歳の時、明和6年(1769)に祇園祭礼に際し山車を引く順番を巡って本宿組の八日市場と、浜宿組の浜宿・河岸が対立しました。この時本宿組の名主後見『名主の相談役』であった忠敬が仲裁に乗り出したのです。)天保9年(1838)、この年本宿の祭礼でけが人の出る喧嘩が生じたため、地頭所より神輿、山車とも巡行の差し止めにあいました。この後、神輿の巡行は許されましたが、山車の曳きまわしは新宿、本宿とも、弘化4年(1847)までの10年間許されなかったということです。

明和7年(1770)には本宿の山車が10台出揃いました。現在、佐原には嘉永期の山車として、寺宿、田宿、上中宿の3台が現存しています。
安政5年(1859)に刊行された「利根川図誌」(赤松宗旦:利根川中流・下流の社寺・名所旧跡を書いた人)には、「この両祭礼は至って賑はしく、いずれも二重三重の屋台十四、五輌ずつ、花を飾り、金銀ちりばめ、錦繍の幕をかけ、囃子ものの拍子いとにぎやかに町々を曳き廻る。見物の群衆人の山をなし、まことに目ざましき祭りなり」と、表現しています。この表現からわかりますように、豪華絢爛な山車だったようですが、まだこの時代現在のような大人形はできていなかったようです。

手踊りは楽しく

山車と囃子を中心とした練物が続いた祭りでしたが、江戸時代末期から明治の初めにかけて江戸職人の手になる大人形が出現し(牛天神 新上河岸区、建速素盞鳴尊 下川岸区、小野道風 新橋本区など)、次第に佐原の山車人形の主流になっていきました。大人形は高さが一丈(約3m)以上で、山車一台に一人が乗る人形です。関戸区で手作りで作られていた天狗の飾り物が二丈もあったため、これに刺激されて大人形の出現になったとされています。