(1)香取の酒づくり

香取の酒づくり

 江戸時代以降、利根川の東遷により水運の拠点となり、関東屈指の地方都市に発展した佐原や小見川も醸造の町として繁栄しました
 江戸時代の酒造りは、酒造株という制度で規制をしていました。経済の基盤である米価の調整は重要で、米を大量に消費する酒造りは厳重な統制を受けました。酒造株ではあらかじめ酒造株高(石数)を受け、情勢によりその二分の一、四分の一造りと制限を受けました。

香取の酒づくり

 佐原の酒造は寛文年間(1661~1672年)に伊能三郎右衛門が常陸国牛堀村平八郎の酒屋名代(酒造石高七十石、代金十両)を買受けて、酒屋を始めたという記録がその最初であるとされています。その後の伊能家の酒造高は、天和元年(1681年)に三十五石、元禄十年(1697年)に七十石、正徳五年 (1715年) に二十三石と推移し、享保九年(1724年)には、伊能家は酒造高七十石のうち三十石を、佐原本宿の永沢仁右衛門に譲っています。佐原では伊能家、永沢家を中心に享保十一年(1726年)に酒造仲間が作られました。元文三年(1738年)から寛政五年(1793年)にかけては江戸期の最盛期であり、伊能家の酒造高は千石を超える高で、三十五軒もの酒屋が造る佐原の酒は関東灘と呼ばれました。

香取の酒づくり

 文化・文政期になると、伊能家・永沢家を中心とした佐原の酒造は転換期をむかえ、文政期には永沢家が、天保十年(1839年)には伊能家が株仲間から名前を消しています。天保十年の株仲間27人のうち、半数以上の14人が新興商人となり、新旧の交代が進んだようです。江戸時代後期は灘の酒が全盛で、佐原の酒は主に地元で消費され、灘の酒が江戸に入って来ない時だけ補佐的に届けられたようです。
 多くの生活物資を上方(大阪)に頼っていた江戸では、享保十一年(1726年)に大阪から入った醤油は全体の76%を占めていましたが、文政四年になると上方の薄口醤油が野田や銚子の濃口醤油に駆逐され、ほとんどが関東産に変わりました。しかし酒はその反対で、品質の向上と量産化に成功した灘酒は、幕末には江戸の消費量の9割近くを占めました。江戸の食文化は灘の酒と千葉の濃口醤油が結びつき発展していったと言われます。利根川下流域で作られる酒は「関東灘」と言われ、灘の酒に次ぐ品質とまでと言われましたが、幾度にも及ぶ規制や腐造の心配などで安定した酒造りは難しく、江戸時代は酒造家数、醸造高いずれも激しく変動します。明治になると「関東灘」は死語となってしまいましたが、現在でも佐原の東薫酒造と馬場本店酒造、小見川の飯田本家が酒造りの伝統を受け継いでいます。