(4)舟運

舟運
<香取市教育委員会提供写真>

江戸時代に利根川が銚子河口へと流路を変える以前から、現在の利根川の下流域には多くの船が往き来をし、地元の民も漁労はもちろん商業活動なども活発に行っていたようです。流路が変わったことで、佐原は利根川上下流域の沿岸地域だけでなく江戸まで舟運によってつながり、経済的な繁栄がもたらされました。安政3年(1856年)の『利根川図志』には「佐原ハ下利根附第一繁昌の地なり、村の中程に川有て新宿・本宿の間に橋を架す、大橋と云、米穀・緒荷物の揚さげ、旅人の船、川口より此所まで先をあらそひ、両岸の狭きをうらミ、誠に水陸往来の群集昼夜止時なし」と、その繁栄ぶりが記されています。

 
舟運

利根川に流れ込む小野川の河口から上流1.8キロメートルの両岸は「佐原河岸」と称され、荷物の揚げ降ろしや旅客の乗降のための「ダシ」と呼ばれる石造りの階段状の船着き場が数多く設置されていました。現在でも数か所のダシが存在し、映画・コマーシャル等の撮影に使われるなど、観光に一役買っております。

舟運

江戸幕府より河岸としての公認を受けたのは元禄3年(1960年)とされ、この時期に利根川の舟運を基盤として、江戸と結びついた商品流通機構が整備されたようです。
この時、河川問屋として認められた伊能三郎右衛門家と伊能茂左衛門の2軒には、運上金が課せられましたが、実質的には村請の河岸でした。伊能三郎右衛門家の当主が、そののち日本を測量して正確な地図を作った伊能忠敬であり、村を代表して幕府との折衝にあたった当人なのです。このことを記した文献、佐原村河岸一件は「伊能忠敬記念館」で見ることができます。伊能忠敬は、測量・地図作成に取り組む前は、酒造・金融業・運送業など手広く営む佐原村の名主として家業を繁栄させ、村のために尽くし、多くの人達からも尊敬され江戸優りと言われる佐原の礎を築いた人物だったのです。

江戸時代の佐原の船数は、延宝9年(1691年)には139艘、内訳は高瀬船19、小茶船15、作船105、元文5年(1740年)には高瀬船23、艜舟17、茶船16、耕作船110であったとされています。天保13年(1842年)に江戸から送られてくる「下りの荷物」には、操綿・古着などの衣料品、砂糖などの食品、鍋釜・瀬戸物・下駄・草履・扇子・提灯などの生活用具や、減事香・煙草などの嗜好品など様々な物が積まれていたとの記録が見られます。多くの江戸の文物を受け入れるなかで形作られた江戸優りといわれる文化は、現在でも多くの建物、佐原の山車に残されています。