(3)近世の佐原

 
近世の佐原
  [香取市教育委員会提供]

 佐原が農村的集落から商業を中心とした集落へと変わっていくのは、徳川家康が江戸に幕府を開いて、米中心の経済から貨幣経済へと変容していった経過と時を同じくしています。
その大きな理由は利根川にあります。江戸に幕府が開かれたとき、現在の利根川は東京湾に注がれていました。この流れを銚子の方へ変える「利根川東遷事業」により、承応3年(1654)に利根川の本流を旧常陸利根川筋(現、利根川中・下流筋)に流入させたことで、北浦・霞ヶ浦・銚子などから関宿を廻って江戸に到達する舟運が完成しました。東北諸藩は、江戸への年貢米や江戸屋敷への廻米を大量に輸送する必要から、危険性が高い海運から安全な河川を利用した運送へと切り替えていきます。銚子に入れた船をいったん利根川を通じて潮来まで遡行させ、ここで川舟に積み替えて江戸へと運ぶようになったのです。

近世の佐原

 しかし、川の宿命として土砂が堆積してきたこと、さらに銚子で積み替えの川舟が調達できるようになってくると、廻船の潮来着岸が減少していきます。そして銚子から佐原を経由して江戸へと運ぶ船が増加していきます。戦国の世から世の中が安定してくるにつれ、米主体の年貢だけでは幕府の財政が不足してきます。当然、幕府は増税をするためにいろいろな方法を考えます。その一つが河岸に税金をかけることでした。
佐原の河岸に運上金(税金)がかけられたときの詳細な経過について、日本全国を歩いて測量しながら詳細な地図を作製した伊能忠敬(伊能三郎右衛門)が文書にして残しています。伊能忠敬記念館に残る「佐原村河岸一件」には村の関係者や代官とのやり取りなどが書かれていて、思いがけない伊能忠敬を知ることができます。

 
近世の佐原
  [東薫酒造]
近世の佐原
  [馬場本店酒造]

 
 江戸文化の華が開いたといわれる元禄期(1688-1704)以降、佐原では新田開発と生産力増大による余剰作物を原料とした商品の製造が盛んになり、江戸へ送られる荷物も年貢米だけではなく、酒や味噌、醤油などが増えてきます。ちなみに天明7年(1787)には、35軒の酒造家がいたとのことです。そのほかにも味噌や醤油を作っていたので、現在の言葉で表すならさしずめ“醸造団地”と言っても過言でないでしょう。今でも2軒の蔵元が酒を造り続けています。

 
近世の佐原
  [千葉県立大利根博物館所有]
 
 
 
 

 
 このように大消費地・江戸に支えられて、“お江戸見たけりゃ佐原へござれ、佐原本町江戸優り”と唄われるほどに繁栄した佐原。安政5年(1858)に刊行された「利根川図志」(赤松宗旦著:利根川中流・下流の社寺、名所旧跡を書いた医師)は、当時の佐原を次のように言い表しています。

 「佐原ハ下利根附第一繁昌の地なり、村の中程に川有て新宿・本宿の間に橋を架す、大橋と云、米穀・緒荷物の揚さげ、旅人の船、川口より此所まで先をあらそひ、両岸の狭きをうらミ、誠に水陸往来の群集昼夜止時なし」

 どうでしょう、当時の繁盛ぶりが脳裏に浮かんできませんか?ちなみに、この中で大橋と表現されている橋は、明治時代には協橋(かなえばし)、そして今日では忠敬橋(ちゅうけいばし)と呼ばれています。