(3)祇園祭礼の仲裁に苦慮

祇園祭礼

 伊能家は、佐原の有力者であったことから、本宿組(八日市場、下仲町、上仲町、寺宿、田宿、橋本の6町)の名主を務めていました。

 婿入りして7年後の24歳の時明和6年(1769)、本宿の氏神である牛頭天王(インドの釈迦の生誕地に因む祇園精舎の守護神とされ、祇園信仰の神)を祭った祇園祭礼において、山車の番次(引き出す順番)について本宿組の八日市場と浜宿組の浜宿・河岸が対立したのです。村役人たちでは収拾できなくなり、浜宿組の名主である永沢治郎右衛門との間で仲裁に乗り出しました。祭礼の日になっても解決されなかったので、この際山車は一切出さないことにするとして、忠敬が本宿組を説得するのなら治郎右衛門も浜宿組を抑えると約束しました。
 ところが浜宿の山車が出てしまい、それを見た八日市場が山車を出すといい始めて、何とか忠敬はそれをなだめました。結局忠敬はこの件に関して八日市場と、田宿、寺宿、橋本の三町に対して詫びを入れたうえ、そのことを永沢治郎右衛門に伝えて「親類中義絶」をしました。それほど大変な経験をしています。(しかしまもなく四人の名主が中に入って、二人の和談が成立しました)一時的にせよ、永沢氏と義絶せざるを得ない立場に追い込まれた苦い経験をしています。