(4)勘定奉行と村の板ばさみ

板ばさみ

 29歳の時まとめた「佐原邑河岸一件」という記録には、佐原村河岸運上金問題で勘定奉行と交渉した経過が詳細に記録されています。

 明和8年(1771)の秋、諸国河岸運上(河岸に税金をかけること)についてお達しがありました。佐原村にも代官所より文書が届き、「兼而佐原村河岸問屋名目之儀 中略 左候ハゝ御勘定所江茂御願申上、村請にも可致由」と、河岸問屋の名前と荷物数量などを書いて提出すれば「村請」にでもしてやろうとのことだったので、村役人が集まって相談しましたが「村請」はみんなが不承知で、これまで河岸運上もなかったので、このたびも運上なしとしてお願いしてみようと決めました。しかし、この願いを持って惣代として行こうとする者がいません。いろいろ相談してもまとまらず、そこへまた勘定奉行よりの催促の書状もきたので、ようやく船惣代二人、名主・組頭の4人が惣代と決まり出頭しました。惣代4人は勘定所へ出頭しましたが、もともと運上引き受けのつもりはありませんでしたので「佐原は利根川と十四・五町も離れており、運上金を上納できるような河岸ではありません」と、運上御免をお願いしました。

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  [香取市教育委員会提供写真]
 
 
 

 すると、それでは佐原は河岸として認めない。隣河岸の問屋の送り状をもって行うことにするといわれました。つまり、佐原村には河岸運送の権利を認めないと通告されたのです。一同驚いて仕方なく、それならと村請をお願いしましたが聞き入れられません。そこで、明和9年正月まで日延べを願い、急いで帰村しました。村役人などでいろいろ相談しましたが問屋名目(誰かが問屋を引き受けなければ)許可にならない様子なので、三郎右衛門ほか、四人の者に村のためと思って問屋名目を引き受けてくれと一同より頼み、一応承知します。その後、そのうちの二名が断ってきて、三郎右衛門、茂左衛門の二人が問屋であるとして二月三日、吟味に臨みました。

 そこでは、前回の吟味の内容と今回の願書との食い違いを指摘され、何とか言い逃れをしましたが古来よりの問屋であるという証拠書類提出を要求され、元々ないものですから、火災などによって失くしてしまいましたと言い訳を述べると、それがなければ河岸として認めないと威され、一応佐原へ帰って伊能家に残っていた古い書類、送り状などをかき集めて出頭し提出したところ、ようやく河岸として認められました。しかし、運上金については両人の願い額は全く認められず、一方的に両人にて永一貫五百文と高額に決定されてしまいました。商売人として各所の河岸の情報も把握していたはずの忠敬が、なんとか村請で纏めようとしたことがうかがわれるのですが、如何せん大勢が税金を払いたくないという考えですから、従わざるを得なかったのだと思われます。このような苦い経験も後年、測量で大勢の人たちを率いるリーダーとしての糧になったものと思われます。