(5)伊能家の経営全般について

伊能家の経営

 忠敬が伊能家に入る前の宝暦10年(1760)に酒造の利益の記載があります。純益として81両2分(不良債権139両2分差引後)となっており、忠敬が婿入りした時点の伊能家はかなり財政状態が思わしくなかったかのような記述が時々見受けられますが、利益を計上しているのですから、それが間違いであることがわかります。
 忠敬が婿入りして12年経過した安永3年(1774)の利益は合計で351両1分にもなり、さらに忠敬隠居の前年である寛政5年(1793)になると合計1264両2分にもなっていました。隠居時の財産は3万両(現在のお金に換算すると約60億円)にもなっていたとのことです。
 米主体の経済から、貨幣経済に移行して大消費地江戸の人口が一説には100万人にもなっていたこと、年貢米などを江戸に送るのに、危険な海上輸送から利根川を経由した舟運に切り替えられたことにより、佐原が中継基地となったこと、さらには戦がなくなって消費が拡大していったことなどの時代反映もあって、佐原では押しも押されもしない大商人になっていました。

伊能家の経営

 忠敬37歳から43歳ころにかけて発生した、日本の近世史上最大の飢饉と言われる“天明の大飢饉”、忠敬は天明5年(1785)に凶作を見越して米の買い付けを行いましたが、案に相違して値段が上がりませんでした。しかし、天明3年(1783)に噴火した浅間山の火山灰などが堆積した関係で、米の買い付けの翌年(天明6年)、未曾有の大洪水が発生し、その影響で米の値段が上昇に転じ、佐原で飢饉対策として村民に施した残りを江戸で売って、巨利を得たのです。
「勤勉、倹約、誠実」この商人道とも言うべきものが、家訓です。江戸に2軒あるうちの一軒を長女稲と婿の盛右衛門の夫婦に任せていたのですが、盛右衛門が何度も米の相場に手を出して失敗たらしく、夫婦を勘当してしまうなど、厳しい一面も持っています。

 さらに、たびたびの飢饉や水害に際し、村民のために尽くしたということで佐原近辺の村人が江戸の評定所に対して箱訴が行われ、幕府もその行いを認めて苗字帯刀を許されるなど、商人としてある程度の目的を果たしたと感じたのではないのでしょうか。享和元年(1801)忠敬56歳の時のことです。
佐原では利根川が時には決壊し、そのたびに橋の架け替えや、地境の引き直しなど、名主としてそれらの仕事に関与してきたことでしょう。伊能忠敬が婿入りする前から、伊能家には測量の伝統があり、学術書も揃えられていたようです。忠敬も名主として訴訟に関与し、その中で測量技術も培っていたことだろうと思います。