(6)測量家としての伊能忠敬

測量家

 伊能家は酒造、米の販売、水運による輸送業務など手広く商売をしていましたが、やはり主体は米、でした。東北諸藩から銚子を経由して大消費地江戸へ運ぶと同時に、米相場にも当然関心が深かったはずです。必然的に暦にも関心が深まっていき、いろいろな書物を取り寄せて勉強します。東北地方への旅も、ただの物見遊山だけではなかったのでしょう。当時仙台藩の米を扱っていた京都の升やの番頭である山片蟠桃とも面識があったのではないかといわれています。(仙台藩は潮来に蔵屋敷を構えていました)
 また、江戸の店の近くには仙台藩江戸詰医師桑原隆朝の屋敷もあったようです。どのような経過かは分かっていませんが、その仙台藩江戸詰医師桑原隆朝の長女である信を、忠敬46歳の時に二度目の妻として迎えるのです。これが“大日本沿海輿地全図”を作成することになる大きな要因の一つであったことは疑う余地がないと思われます。
 当時、暦に関して京都の麻田剛立の弟子で師を凌ぐといわれた高橋至時が幕府天文方に呼ばれたのが、寛政7年(1795)4月、忠敬が至時に入門したのが、5月であり、いくら佐原で名を成した商人とはいえ、簡単に入門できることは考えられず、やはり仙台藩医師桑原隆朝との関係が濃厚に考えられます。ただ、入門したいきさつについて詳細な資料がないため、想像の域を出ませんが。