(7)全国測量と時代背景

全国測量

 佐原での商売の傍ら、すでに「授時歴法」(中国の暦の一つ)を読解していたようです。さらに至時に入門を許されてからの猛勉強が始まったようです。その中でどのようにして日本全国を測量してみたいというとてつもない構想(夢想?)が生まれたのでしょうか?
 寛政年代にロシアの船が頻繁に蝦夷地に現れて寛政11年(1799)幕府が東蝦夷を直轄化するなど、幕府の関心が深くなっていたことも忠敬にとって幸運だったといえるでしょう。ただ、第一回目の測量については、師の高橋でさえ忠敬の高齢を理由に、それほどの信頼を得ていたわけではなさそうでした。幕府の許可にも”測量試みとして認める“という書付であり、役所も本気ではなかったことがうかがわれます。しかし、第四次測量を終え、東日本沿海部の地図が完成するとその出来栄えに時の将軍徳川家斉の上覧を受けるという栄誉を受け、その功により幕臣に取り立てられたのです。

全国測量
 
 

 その後は全面的に幕府直轄事業として進められ、文政4年(1821)ついに大日本沿海與地全図が、完成します。(残念ながら忠敬は完成を見ずに文政元年(1818)73歳で亡くなりました)
 もともと頑健な体ではなかった忠敬が、55歳から蝦夷地を皮切りに始めた測量の旅、次第にその人数が多くなるにつれていろいろなトラブルが生じたことでしょう。さらに過酷な行程に有能な部下が死亡したり、各地の藩との交渉事などを精力的にこなしてついに偉業を成し遂げたのです。その作業も終盤にさしかかった文化10年(1813)6月第八次測量の九州で長男景敬死亡の知らせを受けとります。

 江戸後期最大の国家的プロジェクトといわれるほどの測量を率いた男、伊能忠敬。世界に名をとどろかせた伊能図。ついに忠敬は伊能家の先達をはるかにしのぐ事業を成し遂げたのでした。