(9)忠敬の家族

寛政3年(1791)忠敬46歳の時に書いた家訓の碑が、伊能忠敬旧宅の庭にあります。

1.仮にも、嘘、偽りをしてはいけない。親孝行、兄弟仲良くして正直であること。
2.自分より目上の人、目下の人の意見をよく聞いて、納得できれば用いること。
3.篤く敬う心を持ち、控えめにして、心を広く持ち、決して人と争いなどしてはならない。
 

忠敬の家族

概略するとこのような内容です。
どうでしょう?私たちもこのようなことを常に心に抱いていたいものですね。

 伊能家に婿入りした忠敬は、妻みちとの間に長女(稲)、長男(景敬)、次女(篠)の三人の子供を授かっています。
妻みちと死別した後、次男(秀蔵)、三男(順治)、三女(琴)の三人を授かりますが、相手の女性は定かではありません。
 二人目に迎えたのが仙台藩江戸詰医師桑原隆朝の長女である信(のぶ)さんですが、二人の間に子供は授かったようですが死産だったようです。さらに江戸にはお栄さんという女性もいたようです。まあ、江戸時代の大きな商家のご主人としては、普通だったのかもしれません。
 ただ、伊能家としては忠敬ががんばって経営を拡大したのにもかかわらず、後を継いだ長男の景敬が、若くして世を去り、さらにその跡を文政4年(1821)に継いだばかりの孫の忠誨(ただのり)も6年後の文政10年(1827)に亡くなるなどの悲運に見舞われています。

 文化8年(1811)九州第二次測量出立前に長男景敬にあてて記した教訓と譲り金の配分に関する文書のうちの一部をご紹介します。第三項までありますが、この第一項には

『考は人の道徳の元である。親の言葉に従い、家を治め、子孫繁栄を第一に心がけること。生活は質素にして、将来は諸商売も休み、貸金等は、地頭、村貸しは止めるように。このたびは妙薫、おりてへ申し伝えておいたから、私と思って二人に相談すること』
(伊能忠敬研究 第38号 2004年50ページより引用(口語文))

と書かれています。
“おりて”とは長男景敬の妻のことです。66歳と高齢でもあり、長期にわたる測量になると考えた忠敬が、自分自身は隠居したのにもかかわらず、あまり頼りがいがないと思っていた長男の景敬に対してこまごまとした注意を書き残しているのです。商家でありながら「将来は諸商売も休み」と書かれた部分は、どう解釈したらいいのでしょうか?